63次南極地域観測隊 (夏隊) に参加して(中澤暦先生)

みなさん、こんにちは。環境・社会基盤工学科講師の中澤 暦です。

自己紹介コラムでも触れましたが、私の研究スタイルは、環境問題解決のためにフィールド調査をメインにし、大気、水、土壌、植物片などを現場で採取、持ち帰って研究室で環境汚染に関わる物質を分析・解析し、そこから問題解決のために何が言えるか?を考えていく、という手法をとっています。そんな私が最近特に注目しているのは、環境中の水銀の動態です。

今をさかのぼること数年前、私は昭和基地の土壌中水銀のデータを分析・解析をする機会に恵まれました。地図上で昭和基地や周辺を含めてメッシュ状に区切って採取した土壌中の水銀濃度を分析し、地図にプロットしました。すると、いくつかの地点で少しだけ土壌中水銀濃度が高いことが見えてきました。もともと南極の土壌中の水銀はとても低く、昭和基地での観測隊員の生活に関する活動以外、人為的な汚染源は見当たりません。
「一体、何が要因・・・?」
南極で調査をする楽しみが一つ増えました。

コロナ禍のため、私達 63次南極地域観測隊は横須賀のホテルで2週間隔離されたのち、2021年11月10日に海上自衛隊横須賀地方総監部に停泊している「しらせ」に乗船しました (しらせは海上自衛隊が運航しています) 。隔離開始日、そして乗船前にPCR検査を受けましたが、一度でも陽性になると観測隊への参加は不可とのことで、まるで合格発表を待つ受験生のようなドキドキ感の中、PCR検査の結果を待ちました。昭和基地は医療体制が脆弱なため、コロナに対して細心の注意を払っての出発でした。

コロナ禍で、見送りのイベントなどはありませんでした。近くのヴェルニー公園で大きな旗や横断幕を掲げる人たちに手を振りながら、ひっそりと出発し、12月下旬に昭和基地沖合 約350 m の定着氷に接岸しました (写真1) 。その後、昭和基地入りして、約1か月半の間、南極大陸 (昭和基地、露岩域) で生活・観測を行いました。


(写真1 約 40 日の航海を経て、久々に揺れない場所に降り立つ (船が揺れることを “動揺”というそうです) 。南極といえばオゾンホール。紫外線防備の対策をバッチリして定着氷に降り立った筆者ら。この後、雪上車に乗って昭和基地へと向かった。)

実は、観測隊の隊員はそれぞれ役割が決まっています。
私は陸上生物モニタリングの隊員として観測隊に参加したので、植物 (コケなど) の生息状況の調査、土壌の採取、湖にボートを浮かべて、水の採取や水質計による観測 (写真2) 、また気象 (写真3) や大気の観測(写真4)を行いました。これらの調査は、南極の陸上生物と、それを取り巻く環境要因との関係を明らかにしようという目的で行われています。



(写真2ゴムボートが風にめっぽう弱いことをまざまざと見せつけられた日 (上)と、波がおさまった湖沼にて、水質ゾンデ (水質観測用機器) で観測を試みる筆者 (下) 。
ゴムボートは風にめっぽう弱い。調査できるチャンスは限られているため、現場に行けばとりあえず、安全を確認して、できるかどうか試すのが鉄則。ある日の調査では、風が強く、男性隊員が果敢に沖にボートで出ようとするも流されることしかできなかった。岸に上がってくるなり言った。「風が強すぎて、絶対ムリ!!」 (ラングホブデ ぬるめ池にて) 。)


(写真3 気象計のメンテナンスをする様子。
気象計の一部を取り換え、データをパソコンにダウンロードするのも大事なミッションの一つ。南極の過酷な環境で頑張ってデータを取得し続ける測器をねぎらいつつ、傷を負った (壊れた) 測器を取り換える(スカーレンにて)。 )


(写真4 生物と環境のための基礎データを得るために水銀モニターを確認する筆者。この装置は作動させるのにアルゴンガスが必要だった。出発前、どのような場所に設置できるのか想像できず 47 m3 のボンベ (約 60 kg) を持って行ったのだが、設置場所はなんと2階に相当する場所。エレベータという便利なものはないので、数人でなんとか運びあげた (訂正! 運び込んでもらった、が正しい。) 。小さいボンベを2つにすべきだったと気が付いたときには、時すでに遅しだった (昭和基地にて) 。)

主な調査地は昭和基地と昭和基地から数十km離れた岩が露出している場所 (露岩域) でした (写真5) 。南極は 98 % が氷床に覆われていますが、残りの 2 % は露岩域と言われています。観測隊は過去より露岩域のいくつかの地点を調査地と定めて、長年にわたって、さまざまな観測を行ってきました。


(写真5 露岩域へと調査に出る様子。夏期間露岩域へはしらせに搭載されているヘリコプター (しらせ 飛行科がオペレーション、通称 “オーロラ航空”。) で出かけます。調査道具、非常用装備、テント、食料・・・ひとつあたり 10 kg 程度の荷物 (もっと重い場合も) を、ヘリの搭乗口に時にはバケツリレー、時にはヨロヨロと運ぶ。ヘリのローター(プロペラ)はまわったままなので、下に行くと轟音すさまじく、会話はできない。こういうときに限って伝達事項があったりし、隊員同士、(ヘリの轟音に) ちょっとイライラしながらジェスチャーをしつつ耳元で叫び、会話する (スカルブスネスにて) 。)

さて、冒頭に触れた昭和基地の土壌のサンプルについて、
「この地点だけ濃度が高いのですが、何故ですかね?」と採取してきた共同研究者に尋ねてみた。しかし、採取場所の様子を何度聞いても、私はうまくイメージできません。それでもできる限り情報を集め想像を膨らませて、どうやったらその要因が分かるかな・・・、南極で調査ができると決まったとき、大いに考えました。

土壌中の水銀濃度が他の地点より高いところは、きっと近くに水銀を排出する要因があるはずだ。そして、南極の土壌の中の水銀濃度が高くなる要因は大気からの沈着しかないだろう。そう考え、共同研究者がかつて土壌を採取した場所に向かい、自ら土壌を採取すると同時に、大気中水銀を観測できるサンプラー (パッシブサンプラー) も設置して観測しました (写真6) 。待ちに待った瞬間でした。


(写真6 昭和基地内の土壌中水銀濃度の差を明らかにしようと、大気中水銀を観測するサンプラー (パッシブサンプラー) を設置する。)

持ち帰った試料の分析はこれから本格的に開始する予定です。ゼミの学生とともに分析し、そこから何が言えるかを一緒に考えていこうと思っています。

どんな場合でも現場に行ってわかることは多く、実際、
「ああ、共同研究者が言っていたのはこういうことだったのか。」
 と納得することはよくあることです。

2月初旬、私達63次観測隊 (夏隊) は南極・昭和基地に別れを告げました (写真7) 。しらせに戻り、日本を目指します。


(写真7 2月初旬、昭和基地からの最終便の “オーロラ航空”のヘリコプターに乗って、しらせにもどってきたとき、ヘリコプターの丸い窓から撮影した1枚。あっという間だった南極大陸での生活に別れを告げた。)

帰りの船旅は時間を持て余しました。インターネットができるわけでも大容量のメールのやりとりができるわけでもありません。船の動揺 (ゆれ) はどうにもできませんが、出発前に大量に持ち込んだ論文を見ながら過去に得たデータを論文化することに集中できるという贅沢な時間を過ごしました。

そして、観測隊に参加している間は食料がふんだんにあったため、食の誘惑に勝てず横に成長してしまった体をもとに戻すのが、個人的ではあるものの私にとっては重大ミッションでした。しかし、帰ってきても、いつも履いていたジーンズがやっぱり入らない! 本コラム執筆時点でも履くときつくて仕方のないジーンズなどがクローゼットに並んでいます。

2022年3月末、しらせはふたたび海上自衛隊横須賀地方総監部に入港。私達を待ち構えていたのは、十数台のハイヤーでした。海外 (日本以外) から帰国した船の乗組員は3回のワクチン接種を受けていること、そうでなければ、公共交通機関を利用せず自宅に帰り (もしくはホテルで) 、自主隔離すること。私は生まれて初めて超長距離ハイヤーに乗車しました。

振り返るとあっという間の5か月間でした。これからも、フィールドワークをすることにこだわりながら、環境問題の解決のために何ができるかを考えていきたいと思います。さあ、一緒にフィールドに出て研究してみませんか?